愚者⇔賢者 そして第三の遊び人

出掛けたらさいご、二日も三日も帰らない事がある。父はどこかで、義のために遊んでいる。地獄の思いで遊んでいる。いのちを賭かけて遊んでいる。母は観念して、下の子を背負い、上の子の手を引き、古本屋に本を売りに出掛ける。父は母にお金を置いて行かないから。
 そうして、ことしの四月には、また子供が生れるという。

(太宰治「父」より抜粋。青空文庫より)

その問題は解決などできず、可能なのは酒による延命治療だけであった。昨今では依存症と呼ぶらしいが、当時は概念すら存在したか怪しい。酒でなくとも、頼りきる物、者があれば構わなかった。女、賭け事、ヒロポン、枚挙に暇がない。ゲームであろうと構わない。

遊び人が、好んで遊んでいると思ったら間違いである。きっぱり辞められたり、賭け事で生計を立てられたりしていたら、前者は趣味人であり、後者は労働者である。重ねて申し上げるが、遊び人が好き好んで遊んでいたりするのは間違いなのだ。ピエロの目の下には、いつも涙のマークがある。

人間はホモ・ルーデンス(遊ぶ人)である。ホイジンガの著書の中には、遊びの特徴をまとめている。以下、https://news.kodansha.co.jp/5985から孫引き。

遊びは自由な行為であり、「ほんとのことではない」としてありきたりの生活の埒外にあると考えられる。にもかかわらず、それは遊ぶ人を完全にとりこにするが、だからといって何か物質的利益と結びつくわけでは全くなく、また他面、何かの効用を織り込まれているものでもない。それは自ら進んで限定した時間と空間の中で遂行され、一定の法則に従って秩序正しく進行し、しかも共同体的規範を作り出す。それは自らを好んで秘密で取り囲み、あるいは仮装をもってありきたりの世界とは別のものであることを強調する。

つまり、

① 自由な行為である

② 仮構の世界である

③ 場所的時間的限定性をもつ

④ 秩序を創造する

⑤ 秘密をもつ

これが遊びの5つの形式的特徴。さらに機能的特徴として「戦い(闘技)」と「演技」を挙げる。

DQウォークを当てはまてみよう。

①自由な行為 である(強制されてはいない)

②仮構の世界である(当然である)

③場所的時間的限定星をもつ(スマホの中だもの)

④秩序を創造する(ゲームん中にルールがあるよ)

⑤秘密をもつ(自分じゃなくなるよ。キャラになりきるよ)

立派な遊びのようであるし、なおかつ依存性も持つのであろう。現実が苦しく、解決法が見出だせないのであれば、どうやったって仮構の世界で、秘密を持ちたがるに違いない。むしろ、そこの住人にならないのが不思議なくらいだ。

閑話休題すると、DQウォークに新しい職業が実装されたのだった。遊び人と、踊り子である。

遊び人は、「きまぐれ」と呼ばれるコマンド以外の行動を時々行う。果たして、この職業は望んで気まぐれを起こしているのだろうか。プレイヤーを裏切ったようにもみえるが、織り込み済みで遊び人を選んでいる。

ドラクエ3の話になるが、遊び人が賢者になれるという指摘は示唆に富んでいる。享楽的な状態を克服すれば、一つ賢くなれるのだから。上記ブログの引用にもあるように、現実世界に効用など全くないところが遊びの良いところなのである。もしも報酬が発生しようものなら、それはたちまち仕事になってしまう。

そんなドラクエウォークが、現実世界の道や、歩くという行為を下敷きにしているというのは興味深い事実だ。アスファルトの道は半ば旅路となり、建物の角にはモンスターが待ち構えている。そこではみな勇敢な冒険者で、家族にすまないと思いながら日陰者になっている必要はない。愚者ではないのだ。

賢者の反対は愚者であるが、遊び人は愚者ではない。なぜならば、愚者は占い師だからである。オチです。


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