先が読める展開。いい意味で。

ミステリーなら必ず誰かが死ぬし、探偵か、それに類する役割の人が解決してくれる。そうなっているし、そうでなければおかしい。違えば、読者は文句をつけてしまうだろう。暗黙の了解という約束事を、一方的に反故にしたのだから。

もしも、ミステリーの舞台が幼稚園や保育園であったならば、一般的な心情として、被害者は先生や父兄の誰かであってもらいたいと願うだろう。ただし、子供たちが被害者でなかったとしても、その子供たちはいつか、必ず死ぬ。寿命を全うする場合もあれば、バックしてきたトラックに轢かれる可能性もある。

宗教の教えに反したから処刑されるかもしれないし、虐待の末に死ぬかもしれない。通り魔にやられるかもしれない。子供のうちでなくとも、高齢になって施設に入ったら、その職員に暴力を受け、殺されるかもしれない。

私たちは「自分だけは」や「自分の周囲だけは」という考えを持たずにはいられない。その余裕が消失してしまえば、世界は本当の姿をさらしてしまい、危険に満ちているのだと知ってしまうからだ。

そんなわけで、FARCRY Primalの主人公、ウィンジャ族のタカールは、敵であるウダム族のダーを仲間に引き入れたのだった。

ウダム族のダー
どっから見ても類人猿

タカールには、守るべき人物であるサイラがいる。ヒロインに相当する人物である。
ウィンジャ族のサイラ
ウダム族の耳を切り取ることで 自身の幻聴を鎮めようとする

ダーとサイラを見て、感じたことはないだろうか? サイラのほうが現生人類に近い容貌なのは、なにもプレイヤー受けを狙ってのことではない。

猿のほうに近いダー。つまりは、そういうことだった。私たちの祖先となって生き延びるのは、ウダム族ではなくウィンジャ族のほうなのだ。

タカールが敵部族を滅ぼした後、ダーは死を望む。弱い血は、もう必要ないという理由だった。
ダーは 自分を三人称で呼ぶ

タカール=プレイヤーは躊躇する。敵だったとはいえ、今は味方のダーを殺せるのかと。しかし、ここで去来するのは、ダーの一族はいずれ滅ぶ運命にあるという、プレイヤーのみが知りうる事実である。

それならば、今ここでダーを殺す必要など、ないのではないのか?
グサッ
結局こうなる

ダーの殺害後、タカールは唱える。「魂よ 自由であれ」と。死者に対する礼儀として、タカールは何度もこの文言を口にしてきた。
私は、脱力感にさいなまれている。いくら、ダーの種としての絶滅が決まっていたとはいえ……この無力感は、何を根源としているのだろう。自分もいつか死ぬという、そんな事実を突きつけられているからなのか。
平定をヒロインのサイラは喜ぶ
後方左のシャーマンも喜んでいる
オロスの地を征服
いわゆるクリアに相当する

エンディングとして、タカールの子供とみられる少年が登場する。父タカールがそうであったように、少年もまたビーストマスターの力を継承しており、ドウクツグマを手なずけるのだ。

しかし、その後もタカールはオロスの地を駆ける。クリア後の世界を探索し、まだプレイしていないクエストや、作っていない道具を開発できるのだ。あたかも、これからも人生は続くということの比喩のように。

私たちは、自分より年若い者の死を望まない。これからを担うからだ。しかしながら、以上のような牽強付会をせずとも、このゲームをプレイする意味は十分にある。面白い。それだけで十分ではないか。

次に、私はFARCRY 4をプレイするつもりだ。というか、もうクリアして、スクリーンショットを載せてブログを書くだけになっている。これもまた、一筋縄ではいかない話なのだが、それはまた別の人生の話なので。

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