ゲームが芸術と呼ばれない理由

2段ジャンプやハイジャンプ、水中ステージ、体を重くして潜ったり壊したりする要素……があるゲームをプレイしました。皆様は、もしかしたら「カービィ?」と思われるかもしれません。
正解は「GRIS」でした。これは、体を重くして突風に飛ばされないようにしているシーンです。小さい四角形が主人公で、操作キャラ。普段はもっと人間ぽいです。

かなり昔に「ときめきメモリアル」のセーブデータを改造をしている人が裁判にかけられ「ゲームは映画の著作物」だから有罪! みたいな判決が出たはずです。ですが、その時期から比べてみますと、もう「映画の著作物」ではなくなっているのではないでしょうか。

ゲームの定義は学者に譲るとして、ゲームが紛れもなく「媒体」の一つであることに疑いの余地はないでしょう。媒体とは表現の手段の一つです。身近な例でいれば、メディアミックスという手法において、同じ話でもゲームになったりマンガになったり映画になったりすることです。そもそも「メディア」の意味は「媒体」なのですから。

元々はマンガだった「ドラえもん」が、ゲームになったり映画になったり、というのがわかりやすいかと。表現形態の一つなのです。

どれを芸術とするかは、またしても人それぞれになるでしょうが「GRIS」は紛れもなく「芸術」に分類されるゲームでしょう。

メニュー画面以外に文字は登場しませんが、日本語版もあるのでプレイに支障はありません。むしろ、言語はこのゲームをプレイするのには必要はなく「感性」のほうが必要になります。べ、別に……アピールとかしてないから……。

とはいえ、物語はわかりやすい部類です。人間に近いけど、人間じゃない人が、壊れた世界を巡って闇と戦い、最終的に光を取り戻す……そんなストーリーです。文字や言葉による説明はありませんが、そうでなくとも「わかりやすい」。

わからないのが芸術じゃないか、という声も聞こえます。しかしながら「GRIS」の背景や、水彩のような表現、音楽、それらから醸し出される感覚は、紛れもなく芸術のそれでしょう。
「GRIS」には不幸なことに、この女性像が壊れるシーンをAIが性的な描写と判断してしまい、ちょっとした問題になったことがあります。

絵画でも「裸のマハ」は、あからさまな姿で問題となりましたし、画家バルテュスの「夢見るテレーズ」も同じです。

結論としては「芸術」になりましたが、なかなかゲーム性の部分も頑張っています。敵のような敵は出てきませんので、どうやって先に進むかというパズルの部分が大きいです。そこで活躍してくるのが、先述した体を重くしたり、二段ジャンプしたりする能力です。

便宜的にGRIS子と呼びますが(笑うな!)、最初からこういった能力を使えるわけではなく、徐々に獲得していきます。そして、時には複数の能力を組み合わせてパズルのようなステージを突破してきます。

戸惑ったのは「黄」のステージで、重力が反転した状態で、2匹のホタルを歌で復活させて遠くにジャンプしなければならないところでしたが、逆に言えばそこぐらいしかないので、マリオやカービィに慣れた人ならば楽にクリアできることでしょう。

ジャンプで段差を乗り越えたり、風に抗ったり……マリオもGRIS子もしていることなのに、二つは正反対です。前者が軽業師のように動くのに対し、後者のGRIS子は動いていても、どこか静謐さを持ち、やはり芸術的です。

場面のどこを切り取っても、まるで絵画のようでした。一人の芸術家が描いた世界を冒険しているのです。



説明しようとすればするほど、言葉のイメージの中にこのゲームを押し込めてしまうような気がしてなりません。筆舌に尽くしがたいとか、論より証拠とか、百聞は一見にしかずとか……この状態を表す言葉なら、いくらでもあるのに。



次は、軽めのゲームをプレイしようと思います。というか、既に手をつけています。即物的・わかりやすい・後に何にも残らない(かもしれない)という、カップラーメンみたいなゲームですが。何というか、ロード画面が最高潮みたいなゲームでした。

ぐらいです。

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