【棒】なぜ積ん読をしてしまうのか【縄】

よく見かける言葉に「私たちの体は縄文時代のまま変わっていないから、常に飢餓に備えている。体に脂肪を貯め込んだり、そのせいで糖尿病になったりする」というものがある。

モノを保管するのは、我々の性質であると同時に宿痾ともいえるだろう。餓死しないように食料を貯蔵することから、物々交換、そして経済が生まれたのだ。

積ん読や、積みゲーを正当化はしない。むしろ、それらは無駄な情報であり、脳におけるメタボリックシンドロームや糖尿病と呼べるだろう。

さて、ゲーム内の出来事をみてみる。そこでプレイヤーが行うことといえば、もっぱら強くなることである。マリオもリンクも勇者も、ドヴァキンもゲラルトも例外ではない。

そして、強さの指標として「数値」が重要になってくる。レベル上げをしていると「あと1つ上がってからセーブして終わろう」という気持ちにはならないだろうか。また、意味がなくとも経験値を稼いだり、お金を稼いだりしていることはないだろうか。本末転倒するように。

保存という行為は、私たち(正確には、私たちの祖先)が生きるためのテクニックだったのだ。

Death Strandingを製作中の小島秀夫監督の言葉を借りれば「棒と縄」で、「棒」とは敵を遠ざけるための道具で、縄とは利益を引き寄せるための道具だ。

縄文人や弥生人の視点に立ってみると、保存・保管していなければ心配になるだろう。肉や魚も必要になる。ドングリを使ったパンもある。いつ、食料が底をつくかもわからないのだから。そこらにコンビニがある世界ではないのだ。

しかし、味覚や嗅覚ですら脳の信号に過ぎないならば、データであるゲームを保存しておくのと、コメや麦を保存しておくのに違いはあるのだろうか?

我に返ってしまえば、このような積ん読・積みゲーは贅肉であり、過多な糖分である。ミニマリストのような生活をしろとは言わないが、これでは脳も疲れてしまうのではないだろうか。たまに、そんな疑念を抱く。

インストールしたまま、プレイしない。アカウントには存在しているけど、インストールすらしない。そのうち、意識もしないまま忘れ去られてしまうのか?

そんな疑問を持ちながら、とあるゲームをプレイした。「Forager 小さなカラダで大冒険」である。

「Forager」は、2Dになったマインクラフトに似ている。ツルハシで樹木や石から素材を集め、かまどや鉄床、調理台などを作成し、そこからさらに高度な道具を作っていく、という流れになっている。

クッパを倒したり、ガノンを倒したり、アルドゥインを倒したり、シリを救出したり、といった明確な目的はない。さながら「そこに山があるからさ」である。

これをプレイしながら、かまどでレンガが出来上がるのを待ち望んだり、素材が足りなくなったり、一つの素材が複数のアイテム作成に必要になったので、やりくりに苦労したりしている。

少しシニカルな態度になっていたので、「Forager」以前の数日はずっと冷笑するようにゲームに接していた。「どうせプレイしきれないのに、こんなに買ってどうするの?」と。さもありなん、今日もまたセールで「Gravity Daze」「Gravity Daze 2」を買ってしまったばかりだ。

なのに、私は「どうせ面白いことなんて」と「Forager」を始めてすぐ……楽しんでいた。

不思議だった。ドラゴンクエストビルダーズ2では、ストーリーだけプレイして売ってしまったり、MMOではエンドコンテンツに挑戦したりなどせず、シナリオ上のボスを倒したりすれば満足していたのに、一体どうしてなのだろう。経済学のケインズが言う、人間がいつも合理的な選択をするわけではない、という一言では片づけられない。

あるいは「寄生獣」のミギーの言葉でもいい。「そりゃあヒマだからさ」と。

「Forager」で、少しずつ素材や、素材からの派生物が貯まっていくさまは、植物が育ったり、砂で精巧なお城を建てたり、ジグソーパズルを完成させていく感覚に近かった。モノを作る喜びだろうか? それこそ、原始時代の人間すら壁画を描いたように?

都会に疲れた人間が「Stardew Valley」に安住の地を見つけたような気持ちだった。いや、分析すら侮辱になるような原始的な衝動に突き動かされ、私は樹木を伐採し、鉱石にツルハシを振り下ろし、モンスターを叩きのめしていた!

そして今、冷静になって、こんな文章を書いている。


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